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ティム・バートン(バイオグラフィ)
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Tim Burton - Filmography

- Mini Biography -
Tim Burton










1958年8月25日、父ビル・バートン、母ジーン・バートンの長男として、カリフォルニア集バーバンクで生まれる。
家族構成は、ティムより3歳年下のダニエルを含む4人家族で、一家の住居はバーバンク空港の真下に位置していた。

12歳から16歳にかけて、ティムは同じくバーバンクに住む祖母のところに引越して一緒に住み、その後祖母が所有していたガレージの上の小さな部屋へ移り住んだ。
彼の芸術的才能はこの頃から現れ始め、9年生の時に廃棄物汚染防止のためのポスターをデザインし、地域の作品展で一等賞を取り、その絵はバーバンクのごみ収集車の側面に飾られていたこともあった。

1976年、18才の時に、ティムはウォルト・ディズニーが創立したカリフォルニア州ヴァレンシアにある大学、カリフォルニア・インスティテュート・オブ・ジ・アーツに奨学金を受けて入学。
当時、将来のアニメーターを養成する場として、ディズニー・スタジオによって1975年に設置された学科があった。

バートンは1979年にディズニーに参加し、スタジオが製作していた「狐と猟犬」のアニメーターの一人として仕事をはじめた。
コンセプチュアル・アーティストとして働いている間に、執行部のジュリー・ヒックソンと、創作開発課のトム・ウィルハイトに出会う。
彼らの力添えで6万ドルを与えられたティムは、1982年、お気に入りの児童作家スース博士をまねて書いた詩をストップモーション・アニメの短編「ヴィンセント」を製作した。

ティムはディズニーに雇用されたまま、「ディズニー・チャンネル」のためのグリム童話「ヘンゼルとグレーテル」でオール東洋人キャストの実写版を監督。

ティム25歳。3作目の監督作は「フランケンウィニー」でディズニー・スタジオは100万ドルの資金を出すまでになってた。
しかし、当時「フランケンウィニー」は1948年に「ピノキオ」のリバイバルとの同時上映で公開されることになっていたがPG指定を受けてしまったためお蔵入りされてしまった。
その後TV番組おとぎ話「アラジンと魔法のランプ」で47分のビデオ作品を作った。

ティムはディズニーを去り、「ピーウィーの大冒険」を監督することになる。
この時ティムは一生涯の友となる作曲家ダニー・エルフマンを起用する。
ダニー・エルフマンは元カルトグループ「オインゴ・ボインゴ」というバンドでパンクっぽい音楽をしていた。
そのクラブにティムが映画界に入る前に行っていたことがきっかけとなり、以前から惚れ込んでいたと言う。
「ピーウィーの大冒険」は1985年の夏に公開されて予想以上に高収益を上げた。

同年、「ヒッチコック劇場」の1作品「ザ・ジャー」の監督を担当。
翌年、「世にも不思議なアメージング・ストーリー」では、「ファミリー・ドッグ」のアニメーション・デザインを担当。
このエピソードはその後シリーズ化され、ティムは製作総指揮を務めることとなった。
なお、ここに出てくる犬はフランケンウィニーにそっくり。

その後ティムは、脚本家のサム・ハムと共にワーナー・ブラザースから提案された「バットマン」の脚本に取り組み始めていたが、スタジオは脚本執筆の進展をいそいそと見守っているうちに、企画にゴーサインを出すのを渋るようになった。

そうこうしているうちに、後で渡された「ビートルジュース」の脚本の方が先に進んでいった。
「ビートルジュース」は1988年のエイプリルフールに公開され、最初の2週間で3200ドルの収益を上げ、最終的には総収益7300ドルを超え、アカデミー最優秀メイクアップ賞も受賞した。
ビートルジュースは後にTVアニメシリーズにまで発展する事になる。

前作の大ヒットにより、「バットマン」を監督する事となったティムは、1988年から1989年にかけての冬の間、イングランドのバインウッド・スタジオで撮影を行った。
バインウッドは、550万ドルの費用をかけて、ゴッサムシティーの光景へと変えられた。ジョーカー役にジャック・ニコルソン、バットマンにはマイケル・キートンをキャスティングして話題を呼び、1989年6月21日にアメリカで公開された。
公開後10日間で一億ドルを突破する最初の映画となった。最終的には1989年度の最高額5億ドルを超える結果を残している。

「バットマン」撮影中に、ドイツ人の画家レナM-セクと出会い、1989年2月に結婚。

ワーナー・ブラザースが希望した「バットマン」の続編を監督することよりも、彼は少年時代に長らく育んできた「シザーハンズ」を作ることを選んだ。
主役のエドワード・シザーハンズにジョニー・ディップを起用。後に彼はバートンの事を「本当の友」と称している。
又ジョニーはこの時共演したウィノナと恋に落ちている。
結局二人は別れる事となるが、ジョニーの腕に刻まれた「ウィノナを永遠に愛す」という刺青は今も消える事はないらしい・・・。
「シザーハンズ」を完成させた後、「ヴィンセントとの対話」を製作した。

1989年、バートンはデニーズ・ディ・ノーヴィと共にティム・バートン・プロダクションを創設した。
ノーヴィは1992年に会社を去ったものの、その後も幾つかの作品で共同制作などを行っている。
その後バートンは「シングルス」でデート代理店のビデオ監督役を演じた。

バートンは「バットマン」を親しみの持てない自作映画であると告白したが、1991年ついにその続編を作ることを決心した
。「バットマン・リターンズ」は1992年7月19日にアメリカで公開され、公開後3日で4770万ドルの収益を上げ、興行史上最大の成功を収め、先行記録を塗り変えた。最終的には世界中で2億6800万ドルの総収益を上げた。

1982年に「ヴィンセント」を完成させた後から、バートンは自分の書いた詩を基に「NBC」をこの時まで暖めてきた。
監督をヘンリー・セレックに託し、1991年に製作に取りかかった。「NBC」の予算は1800万ドルより少なく、ふつうのアニメ映画の何分の1くらいの額だった。
映画は1993年のハロウィーンの日に公開され5100万ドルの興行収入を上げた。

「NBC」に続いて、バートンはディズニーのために「キャビン・ボーイ」をノーヴィーと共同製作したが、評判、興行、両面で完全に失敗した。
その後話題となった「ジキル・アンド・ハイド」もこの頃に企画が入っていたものの、結局監督を降りる事となった。

「ジキル・アンド・ハイド」が頓挫した時、バートンはこれを急いで作れればという条件で「エド・ウッド」を自分で監督したいと思いだす。
エド・ウッドとは史上最低の映画監督と言われる人物で、その伝記映画であった。
ディズニーからの1800万ドルと言う低予算を受け、1993年8月に撮影を開始した。
意外なことにこれまで6本の自作で共働きしてきたデニー・エルフマンとの関係を犠牲にして、音楽担当に作曲家のハワード・ショアを選んだ。
この時の事をバートンは「お互いちょいと休暇を取っているんだ」などと話しているが、実はかなりのケンカをしていたとの噂もある。
しかしその後の作品では、またエルフマンを起用している。
「エドウッド」は1994年10月7日にアメリカで公開され、満場一致の絶賛で迎えられた。
本作品ではアカデミー賞をマーチン・ランドーが受賞した。

1995年に公開された「バットマン・フォーエバー」の製作を務めるが、どこから見てもティム色のかけらも無いところから考えて、ただ名前を貸しただけであったようである。
第4作目である「バットマン・アンド・ロビン」では、完全に手を引いている。
また「ジャイアント・ピーチ」でも製作を務めているが、これもしかりである。
しかし、この作品においては、「NBC」のジャック・スケリントンの使いまわしと思われる人形が出演している。

そんな中、バートンは火星人襲来映画「マーズ・アタック!」の製作に着手した。
本作はトレーディング・カードが基になっており、1996年にアメリカで公開された。
この映画ではトム・ジョーンズが出演しているが、「シザーハンズ」においても「マーズ・アタック!」でトムが歌っていた歌と同じ曲が使われている。

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